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2018年8月30日木曜日

ニヤーズィー・ムスリー「叡智の食卓」:オスマン朝イスラーム神秘主義

ニヤーズィー・ムスリー(1694年没)

スーフィー教団ハルヴェティー教団の導師
アズィーズ・マフムト・ヒュダーイーに並び、トルコのスーフィズム思想形成に大きな影響を与えた人物。

ハキーカ(イスラーム法の内面的真実)の中に存在しない知識や実践は、シャリーア(イスラーム法の外面的真実)においても存在せず、両者はお互いを否定することはない。また、両者の間にはアッラーの英知と御力によって障壁が設けられ、この障壁によって一方が他方と混ざりあうことはない。ハキーカとシャリーアがそれぞれ個別の真実に見えるのは、実はそれぞれを信奉する二つの徒の幻想にすぎない。つまり、これら二つの知(シャリーアとハキーカ)は、実際には一つの知であるが、[人間の]認識によって二つの知に見えているのである。この認識のために二つの徒の間には相違が常に生じてしまう。二つの知の形は外界からみれば山のようである。その存在においては一つであるが、[山の頂上へ向かう]上昇と「頂上からの」降下[という動態]からみれば二つだからだ。上昇はシャリーア、降下はハキーカの譬えである。山を歩くとき、登る者にとってそれは困難であるが、降りる者にとってそれは易しい。
そして、山の頂上にいる者は上昇からも降下からも自由である。また障壁があるために、一方がもう一方の判断を消し去ってしまうこともない。もう一方に対して隠されている判断もまた同様に。この障壁は、二つ世(現世と来世)の建設のために存在しているのだ。
従って、[シャリーアとハキーカは]お互いに完全に会うこともなければ、すっかり介入してしまうこともない。
シャリーアの徒は、彼ら(ハキーカの徒)の感情や知識への関心の無さから、ハキーカの徒と批判し、彼らはシャリーアに反していると考える。一方で、完全さに到達した真理を体得した者(muḥaḳḳikīn)ではないハキーカの徒も、彼ら(シャリーアの徒)への関心の無さとそれ(シャリーア)の放棄から、シャリーアはハキーカに反していると考えている。
 しかし、山の頂上に到達し、頂の最も高い所に座す者は、認識の徒である。彼らは、二つの徒(シャリーアの徒とハキーカの徒)の目にはたるんだ瞼のために二つの知にみえているものが、実際には一つの知であることをしっている。認識の徒は二つの徒(シャリーア・ハキーカの徒)どちらの正しさも認め、二つの徒の疑いを晴らすことで彼らの間の争いを正し、可能な限り両者の問題を解決する。
そして、両者を正す者は、いずれの時代にも常に存在している。もしそのような者がいなければ、両者の間には争いが生じ、秩序の要は失われてしまう。したがって、「最もよい人格を持つ者は、人々の争いをおさめよ」と言われるのだ。この二つの知は、調停によって限りなく接近し、統合しかけるのだが、中間障壁(バルザフ)によって分かたれ、干渉することはない。一方の認識による判断が他方を打ち負かすことで、二つの世界の構造を壊すことが無いように、両者の状態は常にこのような状態で保たれる。

2018年8月7日火曜日

ナジュムッディーン・クブラー「スーフィズム10の教理」(下書き)

                                                   スーフィズム10の教理


(ナジュムッディーン・クブラー(1220年没
慈悲深く慈愛あまねき神の御名において

ナジュムッディーン・クブラー師―アッラーが彼の心を聖なるものにしますようにー至高なるアッラーに至る道は人間の魂のあり方によって分かれる。しかしこれから述べる我々の道は、アッラーに最も近く、明白で、正しいものである。アッラーに至る道は多様にあるが、大きく分けて三種類にまとめられる。

第1の道
イスラーム法の実践の徒の道である。彼らは断食や礼拝、クルアーンの読誦、巡礼、ジハード、その他諸々イスラーム法の外面的行為を行う。このような方法によってアッラーに至ることのできる者は、長い時間をかけても僅かしかいない。

第2の道
自己の修練・修行の徒の道である。彼らは人格の涵養や魂の浄化、心の純化、霊魂を清めたり、内面を磨いたりする。この第二の道は篤信者の実践道であり、この方法によってアッラーに至る者は、前述の方法よりも多い。しかしながらこの方法で到達できることは稀である。これはスーフィー聖者達の以下の問答に現れている。

イブラーヒーム・ハワースにイブン・マンスールが「お前はどのような境地でお前の魂を鎮めたのか」と問い、ハワースは「私は三十年間、神に身を委ねる境地の中に自らの魂を納めた」と答えた。マンスールは「お前は生涯を内面を磨くことに捧げたが、神の中に自身を消滅させることはしなかったのか?」と答えた。

第三の道
アッラーを求めて彷徨い、アッラーによって飛び立つ道である。神への愛の徒のうちの陶酔者、神的恍惚に囚われた修行者の道である。この方法を用いて修行の始めに神に至る者は、他の方法を実践して最終的に神に至ることのできる者よりも多い。この選ばれし修行法は、選択的死に基づいている。預言者の言葉「死を迎える前に死ぬのだ」が示す通りである。この道は10の教理にまとめられる。

第1の教理「悔い改め」
死は意図せずアッラーの御許に戻ることであるが、アッラーが「お前の主の元に立ち還れ、喜びと主のご満悦に満ちながら」と仰るように、悔い改めとは意思をもってアッラーの御許に戻ることである。それはあらゆる罪から逃れることである。罪とは、現世と来世のさまざまな局面において、お前から神を見えなくしてしまうものを指す。求道者は、神以外のあらゆる対象から解脱しなければならない。「お前の存在こそが、何にも比べようのないほどの罪なのだ」と言われるように、解脱する対象は自身の存在さえも含まれる。

第2の教理「節制」
現世における節制とは、死が様々な欲から解放されることであるように、小さなことであれ大きなことであれ物欲や欲望、財産や地位などから距離を置くことである。しかし本当の節制とは、現世だけでなく来世においても己を律することである。預言者曰く「来世の人々にとって現世はハラームであり、現世の人々にとっては来世がハラームである。しかしアッラーの民にとっては二つ世どちらもハラームである。」

第3の教理「信託」
    アッラーに身を任すことであり、それは死と同じように、神を信頼することで様々な出来事が起こった原因やその結果に囚われないことである。アッラーが「神に身を委ねる者にとっては神がいれば十分である。」(クルアーン65章3節)