ニヤーズィー・ムスリー(1694年没)
スーフィー教団ハルヴェティー教団の導師
アズィーズ・マフムト・ヒュダーイーに並び、トルコのスーフィズム思想形成に大きな影響を与えた人物。
ハキーカ(イスラーム法の内面的真実)の中に存在しない知識や実践は、シャリーア(イスラーム法の外面的真実)においても存在せず、両者はお互いを否定することはない。また、両者の間にはアッラーの英知と御力によって障壁が設けられ、この障壁によって一方が他方と混ざりあうことはない。ハキーカとシャリーアがそれぞれ個別の真実に見えるのは、実はそれぞれを信奉する二つの徒の幻想にすぎない。つまり、これら二つの知(シャリーアとハキーカ)は、実際には一つの知であるが、[人間の]認識によって二つの知に見えているのである。この認識のために二つの徒の間には相違が常に生じてしまう。二つの知の形は外界からみれば山のようである。その存在においては一つであるが、[山の頂上へ向かう]上昇と「頂上からの」降下[という動態]からみれば二つだからだ。上昇はシャリーア、降下はハキーカの譬えである。山を歩くとき、登る者にとってそれは困難であるが、降りる者にとってそれは易しい。
そして、山の頂上にいる者は上昇からも降下からも自由である。また障壁があるために、一方がもう一方の判断を消し去ってしまうこともない。もう一方に対して隠されている判断もまた同様に。この障壁は、二つ世(現世と来世)の建設のために存在しているのだ。
従って、[シャリーアとハキーカは]お互いに完全に会うこともなければ、すっかり介入してしまうこともない。
シャリーアの徒は、彼ら(ハキーカの徒)の感情や知識への関心の無さから、ハキーカの徒と批判し、彼らはシャリーアに反していると考える。一方で、完全さに到達した真理を体得した者(muḥaḳḳikīn)ではないハキーカの徒も、彼ら(シャリーアの徒)への関心の無さとそれ(シャリーア)の放棄から、シャリーアはハキーカに反していると考えている。
しかし、山の頂上に到達し、頂の最も高い所に座す者は、認識の徒である。彼らは、二つの徒(シャリーアの徒とハキーカの徒)の目にはたるんだ瞼のために二つの知にみえているものが、実際には一つの知であることをしっている。認識の徒は二つの徒(シャリーア・ハキーカの徒)どちらの正しさも認め、二つの徒の疑いを晴らすことで彼らの間の争いを正し、可能な限り両者の問題を解決する。
そして、両者を正す者は、いずれの時代にも常に存在している。もしそのような者がいなければ、両者の間には争いが生じ、秩序の要は失われてしまう。したがって、「最もよい人格を持つ者は、人々の争いをおさめよ」と言われるのだ。この二つの知は、調停によって限りなく接近し、統合しかけるのだが、中間障壁(バルザフ)によって分かたれ、干渉することはない。一方の認識による判断が他方を打ち負かすことで、二つの世界の構造を壊すことが無いように、両者の状態は常にこのような状態で保たれる。
スーフィー教団ハルヴェティー教団の導師
アズィーズ・マフムト・ヒュダーイーに並び、トルコのスーフィズム思想形成に大きな影響を与えた人物。
ハキーカ(イスラーム法の内面的真実)の中に存在しない知識や実践は、シャリーア(イスラーム法の外面的真実)においても存在せず、両者はお互いを否定することはない。また、両者の間にはアッラーの英知と御力によって障壁が設けられ、この障壁によって一方が他方と混ざりあうことはない。ハキーカとシャリーアがそれぞれ個別の真実に見えるのは、実はそれぞれを信奉する二つの徒の幻想にすぎない。つまり、これら二つの知(シャリーアとハキーカ)は、実際には一つの知であるが、[人間の]認識によって二つの知に見えているのである。この認識のために二つの徒の間には相違が常に生じてしまう。二つの知の形は外界からみれば山のようである。その存在においては一つであるが、[山の頂上へ向かう]上昇と「頂上からの」降下[という動態]からみれば二つだからだ。上昇はシャリーア、降下はハキーカの譬えである。山を歩くとき、登る者にとってそれは困難であるが、降りる者にとってそれは易しい。
そして、山の頂上にいる者は上昇からも降下からも自由である。また障壁があるために、一方がもう一方の判断を消し去ってしまうこともない。もう一方に対して隠されている判断もまた同様に。この障壁は、二つ世(現世と来世)の建設のために存在しているのだ。
従って、[シャリーアとハキーカは]お互いに完全に会うこともなければ、すっかり介入してしまうこともない。
シャリーアの徒は、彼ら(ハキーカの徒)の感情や知識への関心の無さから、ハキーカの徒と批判し、彼らはシャリーアに反していると考える。一方で、完全さに到達した真理を体得した者(muḥaḳḳikīn)ではないハキーカの徒も、彼ら(シャリーアの徒)への関心の無さとそれ(シャリーア)の放棄から、シャリーアはハキーカに反していると考えている。
しかし、山の頂上に到達し、頂の最も高い所に座す者は、認識の徒である。彼らは、二つの徒(シャリーアの徒とハキーカの徒)の目にはたるんだ瞼のために二つの知にみえているものが、実際には一つの知であることをしっている。認識の徒は二つの徒(シャリーア・ハキーカの徒)どちらの正しさも認め、二つの徒の疑いを晴らすことで彼らの間の争いを正し、可能な限り両者の問題を解決する。
そして、両者を正す者は、いずれの時代にも常に存在している。もしそのような者がいなければ、両者の間には争いが生じ、秩序の要は失われてしまう。したがって、「最もよい人格を持つ者は、人々の争いをおさめよ」と言われるのだ。この二つの知は、調停によって限りなく接近し、統合しかけるのだが、中間障壁(バルザフ)によって分かたれ、干渉することはない。一方の認識による判断が他方を打ち負かすことで、二つの世界の構造を壊すことが無いように、両者の状態は常にこのような状態で保たれる。
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