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2018年8月7日火曜日

ナジュムッディーン・クブラー「スーフィズム10の教理」(下書き)

                                                   スーフィズム10の教理


(ナジュムッディーン・クブラー(1220年没
慈悲深く慈愛あまねき神の御名において

ナジュムッディーン・クブラー師―アッラーが彼の心を聖なるものにしますようにー至高なるアッラーに至る道は人間の魂のあり方によって分かれる。しかしこれから述べる我々の道は、アッラーに最も近く、明白で、正しいものである。アッラーに至る道は多様にあるが、大きく分けて三種類にまとめられる。

第1の道
イスラーム法の実践の徒の道である。彼らは断食や礼拝、クルアーンの読誦、巡礼、ジハード、その他諸々イスラーム法の外面的行為を行う。このような方法によってアッラーに至ることのできる者は、長い時間をかけても僅かしかいない。

第2の道
自己の修練・修行の徒の道である。彼らは人格の涵養や魂の浄化、心の純化、霊魂を清めたり、内面を磨いたりする。この第二の道は篤信者の実践道であり、この方法によってアッラーに至る者は、前述の方法よりも多い。しかしながらこの方法で到達できることは稀である。これはスーフィー聖者達の以下の問答に現れている。

イブラーヒーム・ハワースにイブン・マンスールが「お前はどのような境地でお前の魂を鎮めたのか」と問い、ハワースは「私は三十年間、神に身を委ねる境地の中に自らの魂を納めた」と答えた。マンスールは「お前は生涯を内面を磨くことに捧げたが、神の中に自身を消滅させることはしなかったのか?」と答えた。

第三の道
アッラーを求めて彷徨い、アッラーによって飛び立つ道である。神への愛の徒のうちの陶酔者、神的恍惚に囚われた修行者の道である。この方法を用いて修行の始めに神に至る者は、他の方法を実践して最終的に神に至ることのできる者よりも多い。この選ばれし修行法は、選択的死に基づいている。預言者の言葉「死を迎える前に死ぬのだ」が示す通りである。この道は10の教理にまとめられる。

第1の教理「悔い改め」
死は意図せずアッラーの御許に戻ることであるが、アッラーが「お前の主の元に立ち還れ、喜びと主のご満悦に満ちながら」と仰るように、悔い改めとは意思をもってアッラーの御許に戻ることである。それはあらゆる罪から逃れることである。罪とは、現世と来世のさまざまな局面において、お前から神を見えなくしてしまうものを指す。求道者は、神以外のあらゆる対象から解脱しなければならない。「お前の存在こそが、何にも比べようのないほどの罪なのだ」と言われるように、解脱する対象は自身の存在さえも含まれる。

第2の教理「節制」
現世における節制とは、死が様々な欲から解放されることであるように、小さなことであれ大きなことであれ物欲や欲望、財産や地位などから距離を置くことである。しかし本当の節制とは、現世だけでなく来世においても己を律することである。預言者曰く「来世の人々にとって現世はハラームであり、現世の人々にとっては来世がハラームである。しかしアッラーの民にとっては二つ世どちらもハラームである。」

第3の教理「信託」
    アッラーに身を任すことであり、それは死と同じように、神を信頼することで様々な出来事が起こった原因やその結果に囚われないことである。アッラーが「神に身を委ねる者にとっては神がいれば十分である。」(クルアーン65章3節)

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