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2018年9月9日日曜日

オスマン朝政治哲学:タシュキョプリザーデの政治倫理


アフメド・タシュキョプリザーデ(1561年没)
オスマン朝に活躍したイスラーム学者。高名なウラマーの家系に生まれマドラサの教授職や裁判官を歴任。多数の著作を残しているが、オスマン朝のウラマー・スーフィーの伝記集と当時の学問の百科全書が特に有名。


人間の代理人性と倫理的統治の神秘
タシュキョプリザーデ

至高なるアッラー曰く、「かれこそは,お前たちを地上の代理人とされた方である。誰にしても信じない者は,その不信心で自分自身を損う」(クルアーン35章39節)
またアブー・フライラが伝えるハディースより、預言者ムハンマド曰く「あなた達は羊飼いであり、各々の家畜を守る責任がある。」

以下のことを知りなさい。人間はこの世の存在するあらゆる被造物の写しである。従ってスーフィーの哲学者達は人間を小宇宙(ミクロコスモス)と呼んだのである。人間の中には天使、ジン、獣、鳥に至るまで大宇宙(マクロコスモス)におけるあらゆるものが存在する。大地や諸天、あるいは玉座でさえも抱えることのできない多くのものを人間の心は抱えることができるのである。「我が大地も我が諸天も我を包み込むことはないが、清らかで信仰深い信仰者の心は我を包み込む」とのアッラーの聖ハディースを預言者ムハンマドが伝えている通りである。本書の目的は、人間的精神の統治はいかにあるべきか、個々の人間の身体において精神はいかに管理されるべきかを明らかにすることである。なぜなら本書のような概論ではその神秘について詳細に触れることは不可能だからだ。

以下のことを知りなさい。現実の政治統治において大臣や代理人、書記官、官僚、法官などが必要とされるように、精神的統治も同様である。その精神の「国家」を管理し、敵の攻撃によって破壊されないように精神の統治の様々な状態を理解することが求められる。

以下のことを知りなさい。人間の霊魂は神的神秘のうちのひとつであり、アッラーは人間の身体の中に御休息の場を置いた。スーフィーの言葉よれば、その場所とは心である。しかし、霊魂は物理的に心に場所を取るわけではない。霊魂が関わる最初のものが心なのだ。預言者ムハンマド曰く「まことにアッラーはあなた方の外見や行為を見ているのではなく、あなた方の心のあり方を見ているのだ。」なぜならカリフを見るものは、カリフが座す場所を見ているからだ。
この「心」は生物が持つ松毬の形をした心臓を指しているのではない。ここでの「心」とは、ムルク界とマラクート界の神秘を統合し、霊魂と理性的魂が交わることにより生まれる幽玄界と現象界についての情報を知らせる精妙なものを指している。この精妙なる心が聖なる霊魂に向いたときには霊的光と神的神秘によって光り輝き四肢、五臓六腑のあらゆる動きを正す。しかし精妙なる心が動物的情動、欲望に向いたときには、心が管理する身体も含め腐敗したものとなる。預言者ムハンマド曰く「まことに人間の体にはそれが健全であれば体全体が健全であり、それが腐敗すれば体全体が腐敗する肉塊がある。実にそれは心臓である。」

2018年9月2日日曜日

ニヤーズィー・ムスリー『叡智の食卓』:不可欠性の完成

叡智の食卓

ニヤーズィー・ムスリー

第1の食卓 

アッラーに称えあれ。彼こそは様々な善によって恵みを与え、クルアーンの御馳走へすべての人類と人々を招きたもうた御方。そしてその食卓へ誘う者達の長であるムハンマドに祝福と平安あれ。そしてアッラーが心に叡智の食卓への招待に快く答える心を与えたもうた彼のご家族と教友にも祝福と平安を。

さて、この貧しき神の僕であるわたくしムスリーは、この叡智の食卓への誘いに応える身では到底ないにもかかわらず、至高なる神の以下の御言葉を唱えながら長きにわたって円卓の席につくことを願っていた。
アッラー、わたしたちの主よ、わたしたちのために、(食物を並べた)食卓を天から御下しになり、それでわたしたちへの最初の、また最後の機縁となされ、あなたからの印として下さい。わたしたちに食を与えて下さい。本当にあなたは最も優れた養い主です。」(食卓章114節)

 すると「(アッラーの)不可欠性が完成された時、彼はアッラーである」との言葉の真義が私の心に降示された、彼以外の何ものにも存在は決してなく、(存在しているように見えるものは)幻想に過ぎないことをアッラーは体感的真理として私にお見せになった。そしてアッラーは以下のことを私に教えたもうた。

 真智者の心がこの(真なる)存在(アッラー)への不可欠性を全うしない限り、至高なるアッラーが「その日,或る者たちの顔は輝き、かれらの主を,仰ぎ見る。」(復活章22―23節)と仰せのように、いかなる覆いも無しに真なる御方の顔をまざまざと臨むことなど不可能であり、また(アッラーが)それ(存在)を諸天と地に提示された時、信託が存在と名づけられたところの、真智者が引き受けた存在という信託をその寄託者(アッラー)に対して完全に履行したことにはならず、背信を完全には免れることはできず、また「アッラーは背信者たちを愛し給わない」(戦利品章58節)ので、至高者の彼への愛がないため、至高なるアッラーを愛してもいないのである。

 真なる御方ご自身にだけ属す「存在」を自身のものとして主張するような者が、どうして覆い無しに直接神の御顔を臨むことができるだろうか。不可欠の完成とは、神以外のものから存在を完全に剥奪することであり、このような剥奪の許に真なる御方はその身を直接現され、その後に隠れることは決してない。

 もしお前が「もし存在が外面的にも内面的にもアッラーのものであるならば、神を知り、神を見、神を目撃する主体は誰なのか?」と問うならば、私は以下のように答えよう。
「存在は一つであるが、その段階は多様である。愛する者の段階に現れることもあれば、愛される者の段階で現れることもある。ある段階ではバラとして顕われることもあれば、別の段階ではナイチンゲールとして顕われる。」

 マッカ開示の最初にある二行詩にある通りである。
主は真であり、しもべも真である。
ああ、(誰が神命を)負荷された者(であるか)を知りえたならば!
もしそれがしもべというならば、その者は死んでいる(死者が命令を負荷されようか?)
それは主というならば、いかにして(神命を)負荷されることがあろうか?


 すなわち、不可欠性の真義とは、二つ世(現世・来世)において顔を黒くすることである。黒とは無を意味する。つまり、現世と来世において無であり、存在がないという意味である。

 なぜなら存在は真には神にだけ属し、現世と来世における被造物には転義的に用いられるに過ぎないからである。
「己を理解した者はその主を知る」との預言者の言葉の意味について、なぜなら自身に存在は無いと理解した者は、自身にある存在は主のものであると理解するからである。つまり、存在は「それ(本体)性」においては主であり、(人間)自身であるのは、非限定的表現と個別化においてであるとこを理解する。あるいは、それ自体としては主であり、個体化においては人間自身である、と言いなさい。

 「貧しさは不信仰にも転じかねない」との預言者の言葉は、推奨的行為による神への接近の結果についてであって(推奨行為による神への接近は良いファクルであるが時には不信仰に転ずる場合もある)。私はすべて(神への接近)がそう(不信仰になる)であるとは言わない。それ(すべてが不信仰であるの)は義務の崇拝行為の(段階にとどまっている)神への接近である。「アッラーこそ真を述べ、正しいまっすぐな道へ導きたもう。」(部族連合章4節)




ナーブルスィー「イスラーム信仰の真理」

酒屋の薫りと器楽の音色

アブドゥルガニー・ナーブルスィー 


本文「お前のすべては隠された多神崇拝である」

注釈
以上の命題に熟知しておられる比類なきアルスラーン師(アッラーが彼の神秘に満ちた心を聖なるものとし給いますように)は以下のようにいった。
「お前の全ては」、すなわち、人間よ、お前の本質、属性、諸行為、判断の(全ては)
「隠されたシルク(多神崇拝)である」つまり、多神崇拝を行う者という意味である。
(さらにそのシルクは)あなたに顕れていないものなのである。

 もしお前がそれは預言者とそれ以外の人間をも含み、隠された多神崇拝は例え預言者であっても避けることは不可能である、と言うのであれば、私は以下のように答える。
それは、主によらずに区別の階梯に立ち、主への統合に至らずにそこ(区別の階梯に)とどまり続ける個別的存在者についてであり、諸預言者はこのような多神崇拝からは超越している。
もし第二の区別(の階梯)にいるのであれば、第二の区別は統合と増加であり、諸臨在の個別化以外には第一の区別とは類似していない。

 隠されたシルクの存在に関する典拠は、聖典とスンナに見ることができる。
「彼らのほとんどは多神教徒としてしかアッラーを信仰していない」(ユースフ章:106)

 主は、彼らの主に対する信仰の状態を多神崇拝として確定され、そしてそれは隠された多神崇拝であり、信仰者はそれ(自分たちが多神崇拝の形でアッラーを信仰していること)に気づいていないのである。このような者がほとんどである。ほんの一握りの者が、アッラーを一神教徒として信仰している。

 スンナに関しては、預言者は以下のようにおっしゃった。
「我がウンマにおける多神崇拝は黒岩を這う黒蟻よりも隠れている」
まさに隠された多神崇拝(の存在)は明白である。この隠された多神崇拝は幻想や誤り、(すなわち)諸々の存在物がアッラーの存在以外の独立した存在によって成り立つと幻想することによって生まれるのである。

 しかし、アッラーの存在以外に存在するものなどない。
「彼の御顔をのぞいて全てのものは滅び去る」
暗喩解釈でも比喩解釈でもなく、これは本義的に理解されるべきものである。しかし幻想は、人間の心から幼児性のヴェールが揚げられ、現世の中で認識が始まったときに生じる。彼の理性は不十分なものであり、真理の知識は欠けている。
そのような中で、彼の理性が[この世の]多性を自明のものとし、彼の想像力がそれを固定してしまい、彼の幻想の中でそれらが本物のものとなってしまう時、彼の思考の中に諸々の存在物が顕れることで、彼の幻想の鏡の中に諸々の存在物の姿が映し出されてしまう。
そして(幻想が)大きくなると、人間は、その[存在物の]背後に彼が知っている類でないものがあるようなものの存在を決して認めなくなってしまう。彼は認識している諸存在物の全てが、概念的リアリティーの残り香、永遠存在の影でしかないことを理解しない。
それは、のどが渇き水を求め、近づいてもそこには何もない蜃気楼と同じである。

 人は自分の許に神を見出し、自らの行いの精算を終えようとする。それは鏡に写されたものを、小さな子供が本当に存在するものと思うような幻想と同じである。
しかし、存在物の真実はそれとは対立するものである。アッラーは崇拝者(である人間)について見通しておられる。

2018年9月1日土曜日

ナーブルスィー『存在一性論概説』(抜粋)


         存在一性論概説
           アブドゥルガニー・ナーブルスィー
慈悲深き、慈愛あまねくアッラーの御名において

無神論者やザンダカ主義者、否定や拒絶の民が理解しているような虚偽の意味ではなく、考察と目撃の民が理解するところの存在の唯一性によって形容されるアッラーにこそ称賛は属す。なぜなら全てのものは、それ自体は虚無、空っぽなものであり、ただ至高なるアッラーの存在によって存在しているに過ぎないからだ。
また我らが長(おさ)ムハンマドに祝福と平安あれ。アッラーは彼(ムハンマド)への追随の光によってシャリーアの諸規定を守り、刑法を執行する者に、あらゆる閉じた扉を開け給う。また彼(ムハンマド)のご家族、教友、従者、援助者、ご一党、誓約を果たす者たちにも平安あれ。
さて、威力比類なき御方である主に寄りかかるこの貧者なる下僕、アブドゥルガニー・イブン・イスマーイール・イブン・ナーブルスィーは言う。アッラーがその手を取り、援助を与え給いますように。本書は、優れた覚知者であるアッラーの民が「存在の唯一性(Wahdat al-Wujud)」と「アッラーの共に存在するものなど何も無い」といった言葉を用いる時に、意図している意味を解明するために著したものである。また本稿の正しさの説明、それ以外の誤りと無知の民の過ちの否定と、それに反することは不可能だとの判断[についても説明する]
私は本書を「存在の唯一性の意味の指示対象の解明」と名付けた。アッラーにこそこの解明へのご助力を乞う。彼こそ私の助力者であり、良き代理人。アッラーこそ真理を述べ給い、[正しき]道へ導き給う。

以下のことを知りなさい。
 この命題、即ち「存在の唯一性」について、今までに古今の多くの学者が論じてきた。(真理の認識を)遮られた無知で知識の足らない者は批判し、真理を理解した真智者は肯定し受け入れてきた問題である。存在の唯一性を批判する者は、存在一性論学派の主張を理解せず、誤解しているだけなのである。実際のところそのような批判というのは、存在の唯一性に対する誤解に基づいて論じられているのであって、存在の唯一性(を本当に理解した上で)論じられているものではない。彼らは勝手に誤解し、その誤解に基づいて批判しているのである。

 一方で、存在一性論学派は真智を理解した学者たちである。彼らは美徳と真理を会得した、神秘的開示と心眼の民、品行方正で魂を研ぎ澄ませた者たちである。

 即ち、大老師イブン・アラビー、シャルフッディーン・イブン・ファーリド、アフィーフ・ティリムサーニー、アブドゥルハック・イブン・サブイーン、アブドゥルカリーム・ジーリーや彼らの学統に連なる者たちである。アッラーが彼らの心の神秘を聖なるものとし、彼らの光を加増されますように。なぜならかれらは存在一性論学派であり、彼らの学説に従う者は最後の審判まで存在するからである。神が望みたもうならば。
 彼らの学説はスンナ派の大学者達のイスラーム理解に反していない。彼らが反することなどありえようか。存在一性論学派やそれに従う者たちへの批判者は存在一性論学派の専門用語への無理解、知識の不足から言いがかりをつけているだけなのである。

なぜなら存在一性論学派の知識とは体感的な神秘的開示と目的に依拠し、彼ら以外の者たちの知識は頭の中に湧く雑念や思索に由来するからである。存在一性論学派の修行は敬虔と善行の実践によって始まるが、彼ら以外の者たちの修行は本を熟読したり、益を得るために被造物に頼ったりすることから始まる。存在一性論学派の知識は、永遠に自存するお方(アッラー)の目撃に至ることで終わるが、それ以外者たちの知識は社会的地位や、かりそめのものを手に入れることで終わる。道というのは真理に導く師達の純粋な道しかなく、正しい信仰とは、目撃されるお方にふさわしい正しい意味に基づく存在の唯一性しかない。

理性を持ち責任能力のある全ての人間は、存在一性論について学び、完全に理解し、その教えを保持し、神学者の言葉など存在一性論に反する言説は拒絶しなければならない。
なぜなら存在一性論とは真理の言葉であり、正しい信条だからだ。批判者の批判や無知な者や存在一性論を理解していない神学者、道を誤り他人も惑わす者の非難から存在一性論の教えを守らなければならない。

以下のことを知りなさい。
 存在一性論はイスラームの師父達の教えに反することを意図しているのではない。むしろ存在一性論は、選良から一般信徒に至るまで全ての人々が合意していることであり、イスラームの教えとして必ず理解できるものである。それはムスリム・非ムスリム問わず、だれからも否定されるようなものでは決してない。また人間の内、理性のある者には存在一性論を否定することは思いもよらない。

あらゆる世界はそこに住む人種や種類、個人によって多様性をみせているが、彼らはそれら自身によってではなく、アッラーの存在によって無から見いだされ存在者として生起している。それら(諸世界)の存在は、それ自身ではなくアッラーの存在によって一瞬きごとに守られている。
そしてそのようであるならば、一瞬きごとにアッラーによって存在せしめられているそれら(諸世界)の存在は、実のところアッラーの存在以外の何物でもない。あらゆる世界は、それ自身から見れば、その根源的無によって虚無でしかない。しかしアッラーの存在から見れば、あらゆる世界はアッラーの存在によって存在している。

そして、アッラーの存在とアッラーによって存在せしめられているそれら[諸世界]の存在は、ひとつの存在であり、それはアッラーの存在だけなのであり、それら[諸世界]は決して存在を有してはいない。「アッラーの存在」であるそれら[諸世界]の「存在」によって意図されているものは、それら[諸世界]の本体(ザート)や形相そのものではない。そうではなくそれ「諸世界の存在」で意図されているものは、それら[諸世界」の本体やや形相が、それらそれ自体の中で存立していることである。これは理性を持つ者たちが合意しているところではアッラーの存在に他ならない。それらの本体と形相は、アッラーがご自身の存在によってそれらを存在せしめられたことを度外視しては、本来的にはそれ自体に存在はない。
アッラーがご自身の存在によって被造物を創造されたという観点を考慮しなくとも、被造物それ自体は、存在を有していない。
 
 [物事の]形骸(だけが研究対象)の学者や神学者は、存在は永遠存在と有限存在の二種類に分かれると主張する。彼らによれば有限(ハーディス)存在は、その本体や形相そのものを指す。したがってアシュアリー神学派はあらゆるモノの「存在」は、そのモノの「本体(ザート)」に他ならず、存在とはそのモノに追加されるものではない、と述べた。このテーマに関してはすでに他の著作の中で述べられている。
 
 しかしながら、理性を有している者であれば意見の相違なく、モノの本体や形相を存在せしめている「存在」とは疑いなくアッラーの存在である。そしてアッラーの民のうち真理を体得した者たちが議論しているのはこの存在についてであって、存在者の本体であるような存在についてではない。
 
 存在一性論に対する意見の食い違いは、「存在」が何を意図しているかについての定義の違いが原因である。存在を存在者の本体そのものと見なしている者は、有限存在を有限な存在者の本体それ自体であると理解しているため、存在一性論を拒絶しているのだ。しかしながらそのような存在一性論批判は全くの誤解である。なぜなら(神学者が)アッラーの存在とは異なる第二の存在として主張する有限「存在」もやはりアッラーの存在によって存立している、と彼(神学者)は考えているからである。つまり彼(神学者)もまたすべての存在はアッラーの存在に帰一すると考えているのである。

 有限な存在者を存在せしめるものとして「存在」を理解する者は、存在一性論を受け入れそれを真と信じる。そしてそれこそが存在に関するあらゆる議論がたどり着く正しい見解である。なぜならアッラーの存在とは、理性のある者が一致しているようにあらゆる存在者が存在するために依拠するところのものだからである。[学者たちの]相違は「存在」という単語が何を意図しているかの解釈から生じる字面の上だけのものである。存在論についてアッラーの徒のうち真理を体得した者たちの言説が最も至高のものであり、それ以外の学者たちの言説は最も低俗なものである。永遠であっても有限(ハーディス)であっても、「存在」とは「すべての存在者を存在せしめるもの」を指すとみなすことが、真理を体得した者たちの理解に最も近い。なぜなら可能(=有限)存在者は、永遠存在から独立することは決してないからである。可能存在者の「存在」とはアッラーの永遠の存在であるが、その(可能存在者)の本体や形相は永遠存在者ではない。
 このような用法に従うと両者は二つのものであるように見えるが、その両者をともに存在せしめている「存在」はひとつの存在である。それ[存在]は永遠者にとっては本体であり、有限者にとっては他者である。永遠者はそれがその本体自体である存在によって存在しており、有限[存在者」は永遠者そのものである存在によって成立している。有限者は永遠者の本体そのものではなく、永遠者も有限者の本体そのものではない。
 
 むしろその各々は、たとえその両者が同一の存在の中に現れ、それ(同一の存在)によって個体として存立しているという点で一致しているとしても、その本体においても属性においても互いに異なっているのである。なぜなら唯一の存在が、永遠者はその本体によって、有限者はその本体ではなくその永遠者にによって(存在しているものだからである)。それゆえ一つの存在は、永遠者として在る場合は、それを超える存在などないような絶対無限定の存在である。一方有限存在として在る場合は、永遠者の側ではなく、有限者の側から生じているために、第一の相(永遠)より低次であり有限なものによって制限されるような限定存在である。これは、夜空に浮かぶ星が実際には大きさは変わっていないにもかかわらず、地上にいる人間にとっては小さく見えることに似ている。大きいものが距離の遠さによって小さく見えたからと言って、実際にそれの大きさが変化しているわけではない。同様に絶対無限定のアッラーの存在も、措定され定立された有限者に対して限定的な存在として顕れたとしても、本来の絶対性が変化したことにはならない。なぜなら絶対無限定の存在は決して分かれたり変化したりしないからだ。どうして非存在が真なる存在者を変化させることができるだろうか?

 変化や変質は、有限な本体や形相に生じるのである。志向なるアッラーはお望みのままにそれらを変化させ、根源的無から偶然的存在へと移行させるのである。そしてそのような存在とは実のところその[アッラーの]存在なのである。それで[有限な本体や形相は]それに適した姿をとる。それは[有限な本体や形相が]概念上の存在においてそれ[神の存在]によって姿をとるが、[概念上で]そのような姿をとることによっても至高者の存在(自体)は分かれたり変化したりすることはないのと同じである。またそれは透明な水は、私たちがその中に硫酸塩を入れ、水が黒色に変色したと仮定し定立しても、水そのものは変化しないし、水の属性が消えたわけではないのと同様である。また辰砂が水に入り、水が赤色に染したと措定し定立するのも同様であり、全ての色についてもそうなのである。それで水そのものが変わったわけでは決してないし、純水の属性が消えたわけでもない。そこには二つのものが存在している。即ち水と硫酸塩、あるいは水と辰砂であって、ひとつのものではなく、水は実在化されたもの(ムハッカク)であるが、[色として顕れている]硫酸塩や辰砂は措定し定立されているのである。両者は一つの存在によって存在しているが、その存在とは水の存在に他ならない。措定し定立されている硫酸塩、辰砂は水の存在以外の存在によって存在しているのではない。そうではなくそれ[色]には水の存在と並んだ存在を持たない。存在とは水だけにあるが、水の存在は、措定し定立されている硫酸塩や辰砂[の色]に、それ[硝酸塩や辰砂の色]がその[水の]中に措定し定立されているために、借り受けられているのである。
 しかしそれ[色が水]によって、水から真の唯一性を奪うようなことはない。なぜならそれ[硝酸塩や辰砂]がその[水]の中に措定し定立されているが、水の中には何物も宿っておらず、水もまた何かに宿っていることもなく、水が措定し定立された硫酸塩や辰砂と統合することはなく、硝酸塩が水と統合することもなく、それはただ二つの本質があるだけだからである。それ自体によって存在している真の水と、それ自体によってではなく、その[水]の中でそれ[硝酸塩、辰砂]を措定し定立する水の存在によって存在している措定し定立された硫酸塩、辰砂である。 もし存在が見かけ上は、実在化された(ムハッカク)な存在者、すなわち水と、措定し定立された(存在)者、すなわち硝酸塩、辰砂との間で、結合した一つのものであるとしても、事柄の実相においては、本来的には結合していないことも不可能ではないのである。それはひとつの単語が約定された本義的意味と約定から外れた転義的意味の両方で使われるとしても、元々の約定においては多義語ではなかったということも不可能ではないのである。
 
 そうではなくて、存在とは実在化された水の存在だけであり、措定され定立された硫酸塩や辰砂には、それと同じように措定され定立された別の存在があるのである。それはアシュアリー師が述べたようにその本体そのものと形相自体であるか、またファフルッディーン・ラーズィーが神学の存在論の該当する場で論じているように、その本体や形相に対して付加されたものであるかである。
 
 存在一性論者が存在という言葉で意図しているものは、存在者を存在者の状態へと移行させるものであり、可能態の範疇に属するモノが措定され定立されたものとなった存在を指しているのではない。この例えを理解しなさい。天と地においてもっともすぐれた喩えはアッラーにこそ属す。 

この喩えの意味とは即ち、真存在とは至高なる真なる御方の本体そのものであって、そのような一つの存在は分かれることもなければ部分化、分節化、変化、変質することは決してない、ということである。それ[真存在]は様態や量、場所、時間、方向によって限定されない。またそれ[真存在]の他にはそれ以外の何ものもないので、何かがそれ[真存在]に宿ることは考えられず、それに並ぶ何ものもないため、何かがそれ[真存在]と統合されることもない。あらゆるもの全てはそれ[真存在]によって存在せしめられ、アッラーの本体そのものである存在によって確立され、現象界に見えるようになる。

 あらゆるものはその本体を鑑みるなら上述の硫酸塩や辰砂のように措定され定立されたものである。形骸の学者や神学者が主張するように、その存在がそれら[万物]の本体であれそれに対して付加されたものであれ、私たちがそれら[万物]に至高者の存在以外の別の存在を認めるなら、そのような存在もまたそれら(万物)とおなじように措定され定立されたものものとなり、その措定され定立された存在者を存在者たらしるものとは何なのか(という問い)に議論は戻ってしまう。そしてそれこそが疑念、疑惑の余地なくアッラーの存在であり、誰もが私たちが述べた意味での存在一性論の学説を認めざるをえなくなるのである。
 
 「アッラーを除く諸世界についてあなたがたは何を述べているのか?と問われるなら、形骸の学者や神学者に対しては私たち(存在一性論学派)は以下のように答えよう。
 「これら(被造物)全てはアッラーの存在によって存立している。それは被造物であり、その本体を鑑みるなら純粋無であるので、それ自身においては措定され定立されたものに過ぎない。そしてその存在はただアッラーの存在にのみによっており、たとえそれ[アッラーの存在]によってそれ[アッラー]以外のものが有らしめられているとしても、存在はアッラーただ御独りにのみ属するからである。
 被造物の存在はアッラーの存在によって成り立ち、たとえそれ以外のものによって存在しているとしても「存在」とはアッラーのみに属す。

 同様に「あなたがた[存在一性論学派]の主張によると、責任能力者の行為について[神によって]強制されており、彼らには[自由な]選択は無いということになってしまうが、責任能力者の行為についてあなたたちはどう考えるのか」という者たちに対しても、「私たちはあなたがたと同じことを考えている」と答える。
 「周知のようにあなた方[神学者]は、人間には選択的部分があり、それによって自分の行為への糸口を得る、と言うが、私たちはあなた方に、全般的に同じことを述べる。なぜならアッラーはすべての創造者であって、「創造」とは「措定」、「定立」を意味するからである。

 「存在」、「措定されたもの」、「定立されたもの」についての私たちの議論に戻ろう。
わたしたちがどのように措定し定立しようとも、それは存在を必要とするが、アッラーの存在以外に存在はない。そしてそのようなものはそれ自身としては純粋無でありながらアッラーの存在によって存在者になっている。万物の措定され定立されたこの「存在」は、それら[万物]の本体そのものであるか、あるいはその付加物であるかであるが、それは形骸の学者や神学者がそれを述べている。彼らはそれをアッラーの存在に対する二つめの存在とみなし、それによって真智者のうちの真理を体得した者である存在一性論学派を批判するが、そのような見解は真智者を害することはない。彼らは(アッラーの存在の)超越性を完全に理解した上で、知る者(アッラー)と知られる者、創造する者(アッラー)と創造される者の間にある類似性が完全であるために存在一性論を主張するのである。それを認めることが彼ら(存在一性論者)に不可能でないのは、彼らが知られるものや被造物に対して、知る者や創造主が持つ属性や名称に対応するものを認めるが、それが彼らの存在一性論の一貫性を損なうことはない。なぜなら真理と体得した真智者たちは、すべての存在者を存在者たらしめているものについて語っているからである。それがなければ、存在の中にそもそも存在者(見いだされるもの)も、認識されるものも、知覚されるものもありえず、あらゆる被造物はそれらを統括するその(アッラーの)存在を視野に入れなければ、それ自身の中には存在を全く有していないのである。
 
 なぜなら被造物には自分(被造物)自身を創る力はなく、それは並ぶものなきアッラーただ御独りの真なる存在だけ(の力)だからである。そして至高者(アッラー)には、彼が措定し定立したあらゆる被造物、もしくはその一部に宿るということは決して考えられない。なぜなら措定され定立された物は、それ自体では純粋無に過ぎないからである。どうして存在が虚無に宿ることがあるだろうか?
 
 同様にアッラーが被造物と合一することも考えられない。なぜなら創造主の本質(ハキーカ)と被造物の本質はお互いに全く異なるものであり、両者には類似する点は全くないからである。真なる御方の本質は「無限定性(イトラーク)」によってさえも限定されない(ムトラク)純粋有である。なぜならそれ(無限定性)もまた限定(カイド)だからである。一方、措定され定立されたものの本質は純粋無であり、限定されたものである。措定され定立されたものの存在は、形骸の学者や神学者が述べているように私たちもそれを述べているとすれば、それもまた措定され定立されたものであり、その本質はやはり純粋無なのである。

2018年8月30日木曜日

ニヤーズィー・ムスリー「叡智の食卓」:オスマン朝イスラーム神秘主義

ニヤーズィー・ムスリー(1694年没)

スーフィー教団ハルヴェティー教団の導師
アズィーズ・マフムト・ヒュダーイーに並び、トルコのスーフィズム思想形成に大きな影響を与えた人物。

ハキーカ(イスラーム法の内面的真実)の中に存在しない知識や実践は、シャリーア(イスラーム法の外面的真実)においても存在せず、両者はお互いを否定することはない。また、両者の間にはアッラーの英知と御力によって障壁が設けられ、この障壁によって一方が他方と混ざりあうことはない。ハキーカとシャリーアがそれぞれ個別の真実に見えるのは、実はそれぞれを信奉する二つの徒の幻想にすぎない。つまり、これら二つの知(シャリーアとハキーカ)は、実際には一つの知であるが、[人間の]認識によって二つの知に見えているのである。この認識のために二つの徒の間には相違が常に生じてしまう。二つの知の形は外界からみれば山のようである。その存在においては一つであるが、[山の頂上へ向かう]上昇と「頂上からの」降下[という動態]からみれば二つだからだ。上昇はシャリーア、降下はハキーカの譬えである。山を歩くとき、登る者にとってそれは困難であるが、降りる者にとってそれは易しい。
そして、山の頂上にいる者は上昇からも降下からも自由である。また障壁があるために、一方がもう一方の判断を消し去ってしまうこともない。もう一方に対して隠されている判断もまた同様に。この障壁は、二つ世(現世と来世)の建設のために存在しているのだ。
従って、[シャリーアとハキーカは]お互いに完全に会うこともなければ、すっかり介入してしまうこともない。
シャリーアの徒は、彼ら(ハキーカの徒)の感情や知識への関心の無さから、ハキーカの徒と批判し、彼らはシャリーアに反していると考える。一方で、完全さに到達した真理を体得した者(muḥaḳḳikīn)ではないハキーカの徒も、彼ら(シャリーアの徒)への関心の無さとそれ(シャリーア)の放棄から、シャリーアはハキーカに反していると考えている。
 しかし、山の頂上に到達し、頂の最も高い所に座す者は、認識の徒である。彼らは、二つの徒(シャリーアの徒とハキーカの徒)の目にはたるんだ瞼のために二つの知にみえているものが、実際には一つの知であることをしっている。認識の徒は二つの徒(シャリーア・ハキーカの徒)どちらの正しさも認め、二つの徒の疑いを晴らすことで彼らの間の争いを正し、可能な限り両者の問題を解決する。
そして、両者を正す者は、いずれの時代にも常に存在している。もしそのような者がいなければ、両者の間には争いが生じ、秩序の要は失われてしまう。したがって、「最もよい人格を持つ者は、人々の争いをおさめよ」と言われるのだ。この二つの知は、調停によって限りなく接近し、統合しかけるのだが、中間障壁(バルザフ)によって分かたれ、干渉することはない。一方の認識による判断が他方を打ち負かすことで、二つの世界の構造を壊すことが無いように、両者の状態は常にこのような状態で保たれる。

2018年8月7日火曜日

ナジュムッディーン・クブラー「スーフィズム10の教理」(下書き)

                                                   スーフィズム10の教理


(ナジュムッディーン・クブラー(1220年没
慈悲深く慈愛あまねき神の御名において

ナジュムッディーン・クブラー師―アッラーが彼の心を聖なるものにしますようにー至高なるアッラーに至る道は人間の魂のあり方によって分かれる。しかしこれから述べる我々の道は、アッラーに最も近く、明白で、正しいものである。アッラーに至る道は多様にあるが、大きく分けて三種類にまとめられる。

第1の道
イスラーム法の実践の徒の道である。彼らは断食や礼拝、クルアーンの読誦、巡礼、ジハード、その他諸々イスラーム法の外面的行為を行う。このような方法によってアッラーに至ることのできる者は、長い時間をかけても僅かしかいない。

第2の道
自己の修練・修行の徒の道である。彼らは人格の涵養や魂の浄化、心の純化、霊魂を清めたり、内面を磨いたりする。この第二の道は篤信者の実践道であり、この方法によってアッラーに至る者は、前述の方法よりも多い。しかしながらこの方法で到達できることは稀である。これはスーフィー聖者達の以下の問答に現れている。

イブラーヒーム・ハワースにイブン・マンスールが「お前はどのような境地でお前の魂を鎮めたのか」と問い、ハワースは「私は三十年間、神に身を委ねる境地の中に自らの魂を納めた」と答えた。マンスールは「お前は生涯を内面を磨くことに捧げたが、神の中に自身を消滅させることはしなかったのか?」と答えた。

第三の道
アッラーを求めて彷徨い、アッラーによって飛び立つ道である。神への愛の徒のうちの陶酔者、神的恍惚に囚われた修行者の道である。この方法を用いて修行の始めに神に至る者は、他の方法を実践して最終的に神に至ることのできる者よりも多い。この選ばれし修行法は、選択的死に基づいている。預言者の言葉「死を迎える前に死ぬのだ」が示す通りである。この道は10の教理にまとめられる。

第1の教理「悔い改め」
死は意図せずアッラーの御許に戻ることであるが、アッラーが「お前の主の元に立ち還れ、喜びと主のご満悦に満ちながら」と仰るように、悔い改めとは意思をもってアッラーの御許に戻ることである。それはあらゆる罪から逃れることである。罪とは、現世と来世のさまざまな局面において、お前から神を見えなくしてしまうものを指す。求道者は、神以外のあらゆる対象から解脱しなければならない。「お前の存在こそが、何にも比べようのないほどの罪なのだ」と言われるように、解脱する対象は自身の存在さえも含まれる。

第2の教理「節制」
現世における節制とは、死が様々な欲から解放されることであるように、小さなことであれ大きなことであれ物欲や欲望、財産や地位などから距離を置くことである。しかし本当の節制とは、現世だけでなく来世においても己を律することである。預言者曰く「来世の人々にとって現世はハラームであり、現世の人々にとっては来世がハラームである。しかしアッラーの民にとっては二つ世どちらもハラームである。」

第3の教理「信託」
    アッラーに身を任すことであり、それは死と同じように、神を信頼することで様々な出来事が起こった原因やその結果に囚われないことである。アッラーが「神に身を委ねる者にとっては神がいれば十分である。」(クルアーン65章3節)

2018年1月27日土曜日

アンカラヴィー「神秘の灯」第一章「光とは何か」


第一章 光とは何か?




知りなさい。アラビア語における「光(al-nūr)」という言葉は、太陽や月、大地や壁その他諸々の上を[はしる]火から溢れ出る様態を指す。このような様態が「神」であることは[本来]不可能である。これ(光)をアッラーに対して用いることは、字義の徒の比喩解釈によってしかありえない。しかしながら、真理を会得した者達にとっては、真の光とはアッラーそのものなのである。なぜなら、それ(光)は本体の諸名のうちの名の一つだからである。[むしろ]光をそれ(神そのもの)以外に用いるほうが転義的解釈に過ぎない。なぜならアッラー以外のものは、それ自体では影、純粋な闇だからだ。これは、存在物それ自体は純粋無であることに由来する。アッラーの使徒―祝福と平安あれ―曰く、「アッラーは被造物を暗闇の中に創り、そしてそこから光を彼らに振りまき給うた。」
 またベドウィンの民が彼に「何によってお前の主を知ったのか」と問うと、預言者は「私は様々なものをアッラーによって知った。」と答えた。この問答は、「何によってお前の主の本質を知ったのか?」と問うと、預言者は「私の主の光によって、私は様々なものを知った」と答えたという意味である。つまり、光とは現出の要因であり、それ(光)を仲介として目に見えるものを認識することができるのと同様に、真なる御方(アッラー)は存在物の表出の要因であり、彼の光と知によって森羅万象は認識され、目撃を与えられることによって、可能存在の本質は目撃される。では、かの御方はあらゆる輪郭よりも顕れたる御方であるにもかかわらず、如何にしてかの御方は[かの御方以外の]残りのモノや輪郭によって類推されるのであろうか。夜明けの光の前では灯りなど必要ない。かの御方は顕れの解明の完全さによって隠れてしまっているのだ。[この意味を]指し示すことは名状しがたく、説明することは何とも難しいのだが。~続く~