ページ

2018年9月2日日曜日

ナーブルスィー「イスラーム信仰の真理」

酒屋の薫りと器楽の音色

アブドゥルガニー・ナーブルスィー 


本文「お前のすべては隠された多神崇拝である」

注釈
以上の命題に熟知しておられる比類なきアルスラーン師(アッラーが彼の神秘に満ちた心を聖なるものとし給いますように)は以下のようにいった。
「お前の全ては」、すなわち、人間よ、お前の本質、属性、諸行為、判断の(全ては)
「隠されたシルク(多神崇拝)である」つまり、多神崇拝を行う者という意味である。
(さらにそのシルクは)あなたに顕れていないものなのである。

 もしお前がそれは預言者とそれ以外の人間をも含み、隠された多神崇拝は例え預言者であっても避けることは不可能である、と言うのであれば、私は以下のように答える。
それは、主によらずに区別の階梯に立ち、主への統合に至らずにそこ(区別の階梯に)とどまり続ける個別的存在者についてであり、諸預言者はこのような多神崇拝からは超越している。
もし第二の区別(の階梯)にいるのであれば、第二の区別は統合と増加であり、諸臨在の個別化以外には第一の区別とは類似していない。

 隠されたシルクの存在に関する典拠は、聖典とスンナに見ることができる。
「彼らのほとんどは多神教徒としてしかアッラーを信仰していない」(ユースフ章:106)

 主は、彼らの主に対する信仰の状態を多神崇拝として確定され、そしてそれは隠された多神崇拝であり、信仰者はそれ(自分たちが多神崇拝の形でアッラーを信仰していること)に気づいていないのである。このような者がほとんどである。ほんの一握りの者が、アッラーを一神教徒として信仰している。

 スンナに関しては、預言者は以下のようにおっしゃった。
「我がウンマにおける多神崇拝は黒岩を這う黒蟻よりも隠れている」
まさに隠された多神崇拝(の存在)は明白である。この隠された多神崇拝は幻想や誤り、(すなわち)諸々の存在物がアッラーの存在以外の独立した存在によって成り立つと幻想することによって生まれるのである。

 しかし、アッラーの存在以外に存在するものなどない。
「彼の御顔をのぞいて全てのものは滅び去る」
暗喩解釈でも比喩解釈でもなく、これは本義的に理解されるべきものである。しかし幻想は、人間の心から幼児性のヴェールが揚げられ、現世の中で認識が始まったときに生じる。彼の理性は不十分なものであり、真理の知識は欠けている。
そのような中で、彼の理性が[この世の]多性を自明のものとし、彼の想像力がそれを固定してしまい、彼の幻想の中でそれらが本物のものとなってしまう時、彼の思考の中に諸々の存在物が顕れることで、彼の幻想の鏡の中に諸々の存在物の姿が映し出されてしまう。
そして(幻想が)大きくなると、人間は、その[存在物の]背後に彼が知っている類でないものがあるようなものの存在を決して認めなくなってしまう。彼は認識している諸存在物の全てが、概念的リアリティーの残り香、永遠存在の影でしかないことを理解しない。
それは、のどが渇き水を求め、近づいてもそこには何もない蜃気楼と同じである。

 人は自分の許に神を見出し、自らの行いの精算を終えようとする。それは鏡に写されたものを、小さな子供が本当に存在するものと思うような幻想と同じである。
しかし、存在物の真実はそれとは対立するものである。アッラーは崇拝者(である人間)について見通しておられる。

0 件のコメント:

コメントを投稿