ページ

2018年9月2日日曜日

ニヤーズィー・ムスリー『叡智の食卓』:不可欠性の完成

叡智の食卓

ニヤーズィー・ムスリー

第1の食卓 

アッラーに称えあれ。彼こそは様々な善によって恵みを与え、クルアーンの御馳走へすべての人類と人々を招きたもうた御方。そしてその食卓へ誘う者達の長であるムハンマドに祝福と平安あれ。そしてアッラーが心に叡智の食卓への招待に快く答える心を与えたもうた彼のご家族と教友にも祝福と平安を。

さて、この貧しき神の僕であるわたくしムスリーは、この叡智の食卓への誘いに応える身では到底ないにもかかわらず、至高なる神の以下の御言葉を唱えながら長きにわたって円卓の席につくことを願っていた。
アッラー、わたしたちの主よ、わたしたちのために、(食物を並べた)食卓を天から御下しになり、それでわたしたちへの最初の、また最後の機縁となされ、あなたからの印として下さい。わたしたちに食を与えて下さい。本当にあなたは最も優れた養い主です。」(食卓章114節)

 すると「(アッラーの)不可欠性が完成された時、彼はアッラーである」との言葉の真義が私の心に降示された、彼以外の何ものにも存在は決してなく、(存在しているように見えるものは)幻想に過ぎないことをアッラーは体感的真理として私にお見せになった。そしてアッラーは以下のことを私に教えたもうた。

 真智者の心がこの(真なる)存在(アッラー)への不可欠性を全うしない限り、至高なるアッラーが「その日,或る者たちの顔は輝き、かれらの主を,仰ぎ見る。」(復活章22―23節)と仰せのように、いかなる覆いも無しに真なる御方の顔をまざまざと臨むことなど不可能であり、また(アッラーが)それ(存在)を諸天と地に提示された時、信託が存在と名づけられたところの、真智者が引き受けた存在という信託をその寄託者(アッラー)に対して完全に履行したことにはならず、背信を完全には免れることはできず、また「アッラーは背信者たちを愛し給わない」(戦利品章58節)ので、至高者の彼への愛がないため、至高なるアッラーを愛してもいないのである。

 真なる御方ご自身にだけ属す「存在」を自身のものとして主張するような者が、どうして覆い無しに直接神の御顔を臨むことができるだろうか。不可欠の完成とは、神以外のものから存在を完全に剥奪することであり、このような剥奪の許に真なる御方はその身を直接現され、その後に隠れることは決してない。

 もしお前が「もし存在が外面的にも内面的にもアッラーのものであるならば、神を知り、神を見、神を目撃する主体は誰なのか?」と問うならば、私は以下のように答えよう。
「存在は一つであるが、その段階は多様である。愛する者の段階に現れることもあれば、愛される者の段階で現れることもある。ある段階ではバラとして顕われることもあれば、別の段階ではナイチンゲールとして顕われる。」

 マッカ開示の最初にある二行詩にある通りである。
主は真であり、しもべも真である。
ああ、(誰が神命を)負荷された者(であるか)を知りえたならば!
もしそれがしもべというならば、その者は死んでいる(死者が命令を負荷されようか?)
それは主というならば、いかにして(神命を)負荷されることがあろうか?


 すなわち、不可欠性の真義とは、二つ世(現世・来世)において顔を黒くすることである。黒とは無を意味する。つまり、現世と来世において無であり、存在がないという意味である。

 なぜなら存在は真には神にだけ属し、現世と来世における被造物には転義的に用いられるに過ぎないからである。
「己を理解した者はその主を知る」との預言者の言葉の意味について、なぜなら自身に存在は無いと理解した者は、自身にある存在は主のものであると理解するからである。つまり、存在は「それ(本体)性」においては主であり、(人間)自身であるのは、非限定的表現と個別化においてであるとこを理解する。あるいは、それ自体としては主であり、個体化においては人間自身である、と言いなさい。

 「貧しさは不信仰にも転じかねない」との預言者の言葉は、推奨的行為による神への接近の結果についてであって(推奨行為による神への接近は良いファクルであるが時には不信仰に転ずる場合もある)。私はすべて(神への接近)がそう(不信仰になる)であるとは言わない。それ(すべてが不信仰であるの)は義務の崇拝行為の(段階にとどまっている)神への接近である。「アッラーこそ真を述べ、正しいまっすぐな道へ導きたもう。」(部族連合章4節)