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2018年9月1日土曜日

ナーブルスィー『存在一性論概説』(抜粋)


         存在一性論概説
           アブドゥルガニー・ナーブルスィー
慈悲深き、慈愛あまねくアッラーの御名において

無神論者やザンダカ主義者、否定や拒絶の民が理解しているような虚偽の意味ではなく、考察と目撃の民が理解するところの存在の唯一性によって形容されるアッラーにこそ称賛は属す。なぜなら全てのものは、それ自体は虚無、空っぽなものであり、ただ至高なるアッラーの存在によって存在しているに過ぎないからだ。
また我らが長(おさ)ムハンマドに祝福と平安あれ。アッラーは彼(ムハンマド)への追随の光によってシャリーアの諸規定を守り、刑法を執行する者に、あらゆる閉じた扉を開け給う。また彼(ムハンマド)のご家族、教友、従者、援助者、ご一党、誓約を果たす者たちにも平安あれ。
さて、威力比類なき御方である主に寄りかかるこの貧者なる下僕、アブドゥルガニー・イブン・イスマーイール・イブン・ナーブルスィーは言う。アッラーがその手を取り、援助を与え給いますように。本書は、優れた覚知者であるアッラーの民が「存在の唯一性(Wahdat al-Wujud)」と「アッラーの共に存在するものなど何も無い」といった言葉を用いる時に、意図している意味を解明するために著したものである。また本稿の正しさの説明、それ以外の誤りと無知の民の過ちの否定と、それに反することは不可能だとの判断[についても説明する]
私は本書を「存在の唯一性の意味の指示対象の解明」と名付けた。アッラーにこそこの解明へのご助力を乞う。彼こそ私の助力者であり、良き代理人。アッラーこそ真理を述べ給い、[正しき]道へ導き給う。

以下のことを知りなさい。
 この命題、即ち「存在の唯一性」について、今までに古今の多くの学者が論じてきた。(真理の認識を)遮られた無知で知識の足らない者は批判し、真理を理解した真智者は肯定し受け入れてきた問題である。存在の唯一性を批判する者は、存在一性論学派の主張を理解せず、誤解しているだけなのである。実際のところそのような批判というのは、存在の唯一性に対する誤解に基づいて論じられているのであって、存在の唯一性(を本当に理解した上で)論じられているものではない。彼らは勝手に誤解し、その誤解に基づいて批判しているのである。

 一方で、存在一性論学派は真智を理解した学者たちである。彼らは美徳と真理を会得した、神秘的開示と心眼の民、品行方正で魂を研ぎ澄ませた者たちである。

 即ち、大老師イブン・アラビー、シャルフッディーン・イブン・ファーリド、アフィーフ・ティリムサーニー、アブドゥルハック・イブン・サブイーン、アブドゥルカリーム・ジーリーや彼らの学統に連なる者たちである。アッラーが彼らの心の神秘を聖なるものとし、彼らの光を加増されますように。なぜならかれらは存在一性論学派であり、彼らの学説に従う者は最後の審判まで存在するからである。神が望みたもうならば。
 彼らの学説はスンナ派の大学者達のイスラーム理解に反していない。彼らが反することなどありえようか。存在一性論学派やそれに従う者たちへの批判者は存在一性論学派の専門用語への無理解、知識の不足から言いがかりをつけているだけなのである。

なぜなら存在一性論学派の知識とは体感的な神秘的開示と目的に依拠し、彼ら以外の者たちの知識は頭の中に湧く雑念や思索に由来するからである。存在一性論学派の修行は敬虔と善行の実践によって始まるが、彼ら以外の者たちの修行は本を熟読したり、益を得るために被造物に頼ったりすることから始まる。存在一性論学派の知識は、永遠に自存するお方(アッラー)の目撃に至ることで終わるが、それ以外者たちの知識は社会的地位や、かりそめのものを手に入れることで終わる。道というのは真理に導く師達の純粋な道しかなく、正しい信仰とは、目撃されるお方にふさわしい正しい意味に基づく存在の唯一性しかない。

理性を持ち責任能力のある全ての人間は、存在一性論について学び、完全に理解し、その教えを保持し、神学者の言葉など存在一性論に反する言説は拒絶しなければならない。
なぜなら存在一性論とは真理の言葉であり、正しい信条だからだ。批判者の批判や無知な者や存在一性論を理解していない神学者、道を誤り他人も惑わす者の非難から存在一性論の教えを守らなければならない。

以下のことを知りなさい。
 存在一性論はイスラームの師父達の教えに反することを意図しているのではない。むしろ存在一性論は、選良から一般信徒に至るまで全ての人々が合意していることであり、イスラームの教えとして必ず理解できるものである。それはムスリム・非ムスリム問わず、だれからも否定されるようなものでは決してない。また人間の内、理性のある者には存在一性論を否定することは思いもよらない。

あらゆる世界はそこに住む人種や種類、個人によって多様性をみせているが、彼らはそれら自身によってではなく、アッラーの存在によって無から見いだされ存在者として生起している。それら(諸世界)の存在は、それ自身ではなくアッラーの存在によって一瞬きごとに守られている。
そしてそのようであるならば、一瞬きごとにアッラーによって存在せしめられているそれら(諸世界)の存在は、実のところアッラーの存在以外の何物でもない。あらゆる世界は、それ自身から見れば、その根源的無によって虚無でしかない。しかしアッラーの存在から見れば、あらゆる世界はアッラーの存在によって存在している。

そして、アッラーの存在とアッラーによって存在せしめられているそれら[諸世界]の存在は、ひとつの存在であり、それはアッラーの存在だけなのであり、それら[諸世界]は決して存在を有してはいない。「アッラーの存在」であるそれら[諸世界]の「存在」によって意図されているものは、それら[諸世界]の本体(ザート)や形相そのものではない。そうではなくそれ「諸世界の存在」で意図されているものは、それら[諸世界」の本体やや形相が、それらそれ自体の中で存立していることである。これは理性を持つ者たちが合意しているところではアッラーの存在に他ならない。それらの本体と形相は、アッラーがご自身の存在によってそれらを存在せしめられたことを度外視しては、本来的にはそれ自体に存在はない。
アッラーがご自身の存在によって被造物を創造されたという観点を考慮しなくとも、被造物それ自体は、存在を有していない。
 
 [物事の]形骸(だけが研究対象)の学者や神学者は、存在は永遠存在と有限存在の二種類に分かれると主張する。彼らによれば有限(ハーディス)存在は、その本体や形相そのものを指す。したがってアシュアリー神学派はあらゆるモノの「存在」は、そのモノの「本体(ザート)」に他ならず、存在とはそのモノに追加されるものではない、と述べた。このテーマに関してはすでに他の著作の中で述べられている。
 
 しかしながら、理性を有している者であれば意見の相違なく、モノの本体や形相を存在せしめている「存在」とは疑いなくアッラーの存在である。そしてアッラーの民のうち真理を体得した者たちが議論しているのはこの存在についてであって、存在者の本体であるような存在についてではない。
 
 存在一性論に対する意見の食い違いは、「存在」が何を意図しているかについての定義の違いが原因である。存在を存在者の本体そのものと見なしている者は、有限存在を有限な存在者の本体それ自体であると理解しているため、存在一性論を拒絶しているのだ。しかしながらそのような存在一性論批判は全くの誤解である。なぜなら(神学者が)アッラーの存在とは異なる第二の存在として主張する有限「存在」もやはりアッラーの存在によって存立している、と彼(神学者)は考えているからである。つまり彼(神学者)もまたすべての存在はアッラーの存在に帰一すると考えているのである。

 有限な存在者を存在せしめるものとして「存在」を理解する者は、存在一性論を受け入れそれを真と信じる。そしてそれこそが存在に関するあらゆる議論がたどり着く正しい見解である。なぜならアッラーの存在とは、理性のある者が一致しているようにあらゆる存在者が存在するために依拠するところのものだからである。[学者たちの]相違は「存在」という単語が何を意図しているかの解釈から生じる字面の上だけのものである。存在論についてアッラーの徒のうち真理を体得した者たちの言説が最も至高のものであり、それ以外の学者たちの言説は最も低俗なものである。永遠であっても有限(ハーディス)であっても、「存在」とは「すべての存在者を存在せしめるもの」を指すとみなすことが、真理を体得した者たちの理解に最も近い。なぜなら可能(=有限)存在者は、永遠存在から独立することは決してないからである。可能存在者の「存在」とはアッラーの永遠の存在であるが、その(可能存在者)の本体や形相は永遠存在者ではない。
 このような用法に従うと両者は二つのものであるように見えるが、その両者をともに存在せしめている「存在」はひとつの存在である。それ[存在]は永遠者にとっては本体であり、有限者にとっては他者である。永遠者はそれがその本体自体である存在によって存在しており、有限[存在者」は永遠者そのものである存在によって成立している。有限者は永遠者の本体そのものではなく、永遠者も有限者の本体そのものではない。
 
 むしろその各々は、たとえその両者が同一の存在の中に現れ、それ(同一の存在)によって個体として存立しているという点で一致しているとしても、その本体においても属性においても互いに異なっているのである。なぜなら唯一の存在が、永遠者はその本体によって、有限者はその本体ではなくその永遠者にによって(存在しているものだからである)。それゆえ一つの存在は、永遠者として在る場合は、それを超える存在などないような絶対無限定の存在である。一方有限存在として在る場合は、永遠者の側ではなく、有限者の側から生じているために、第一の相(永遠)より低次であり有限なものによって制限されるような限定存在である。これは、夜空に浮かぶ星が実際には大きさは変わっていないにもかかわらず、地上にいる人間にとっては小さく見えることに似ている。大きいものが距離の遠さによって小さく見えたからと言って、実際にそれの大きさが変化しているわけではない。同様に絶対無限定のアッラーの存在も、措定され定立された有限者に対して限定的な存在として顕れたとしても、本来の絶対性が変化したことにはならない。なぜなら絶対無限定の存在は決して分かれたり変化したりしないからだ。どうして非存在が真なる存在者を変化させることができるだろうか?

 変化や変質は、有限な本体や形相に生じるのである。志向なるアッラーはお望みのままにそれらを変化させ、根源的無から偶然的存在へと移行させるのである。そしてそのような存在とは実のところその[アッラーの]存在なのである。それで[有限な本体や形相は]それに適した姿をとる。それは[有限な本体や形相が]概念上の存在においてそれ[神の存在]によって姿をとるが、[概念上で]そのような姿をとることによっても至高者の存在(自体)は分かれたり変化したりすることはないのと同じである。またそれは透明な水は、私たちがその中に硫酸塩を入れ、水が黒色に変色したと仮定し定立しても、水そのものは変化しないし、水の属性が消えたわけではないのと同様である。また辰砂が水に入り、水が赤色に染したと措定し定立するのも同様であり、全ての色についてもそうなのである。それで水そのものが変わったわけでは決してないし、純水の属性が消えたわけでもない。そこには二つのものが存在している。即ち水と硫酸塩、あるいは水と辰砂であって、ひとつのものではなく、水は実在化されたもの(ムハッカク)であるが、[色として顕れている]硫酸塩や辰砂は措定し定立されているのである。両者は一つの存在によって存在しているが、その存在とは水の存在に他ならない。措定し定立されている硫酸塩、辰砂は水の存在以外の存在によって存在しているのではない。そうではなくそれ[色]には水の存在と並んだ存在を持たない。存在とは水だけにあるが、水の存在は、措定し定立されている硫酸塩や辰砂[の色]に、それ[硝酸塩や辰砂の色]がその[水の]中に措定し定立されているために、借り受けられているのである。
 しかしそれ[色が水]によって、水から真の唯一性を奪うようなことはない。なぜならそれ[硝酸塩や辰砂]がその[水]の中に措定し定立されているが、水の中には何物も宿っておらず、水もまた何かに宿っていることもなく、水が措定し定立された硫酸塩や辰砂と統合することはなく、硝酸塩が水と統合することもなく、それはただ二つの本質があるだけだからである。それ自体によって存在している真の水と、それ自体によってではなく、その[水]の中でそれ[硝酸塩、辰砂]を措定し定立する水の存在によって存在している措定し定立された硫酸塩、辰砂である。 もし存在が見かけ上は、実在化された(ムハッカク)な存在者、すなわち水と、措定し定立された(存在)者、すなわち硝酸塩、辰砂との間で、結合した一つのものであるとしても、事柄の実相においては、本来的には結合していないことも不可能ではないのである。それはひとつの単語が約定された本義的意味と約定から外れた転義的意味の両方で使われるとしても、元々の約定においては多義語ではなかったということも不可能ではないのである。
 
 そうではなくて、存在とは実在化された水の存在だけであり、措定され定立された硫酸塩や辰砂には、それと同じように措定され定立された別の存在があるのである。それはアシュアリー師が述べたようにその本体そのものと形相自体であるか、またファフルッディーン・ラーズィーが神学の存在論の該当する場で論じているように、その本体や形相に対して付加されたものであるかである。
 
 存在一性論者が存在という言葉で意図しているものは、存在者を存在者の状態へと移行させるものであり、可能態の範疇に属するモノが措定され定立されたものとなった存在を指しているのではない。この例えを理解しなさい。天と地においてもっともすぐれた喩えはアッラーにこそ属す。 

この喩えの意味とは即ち、真存在とは至高なる真なる御方の本体そのものであって、そのような一つの存在は分かれることもなければ部分化、分節化、変化、変質することは決してない、ということである。それ[真存在]は様態や量、場所、時間、方向によって限定されない。またそれ[真存在]の他にはそれ以外の何ものもないので、何かがそれ[真存在]に宿ることは考えられず、それに並ぶ何ものもないため、何かがそれ[真存在]と統合されることもない。あらゆるもの全てはそれ[真存在]によって存在せしめられ、アッラーの本体そのものである存在によって確立され、現象界に見えるようになる。

 あらゆるものはその本体を鑑みるなら上述の硫酸塩や辰砂のように措定され定立されたものである。形骸の学者や神学者が主張するように、その存在がそれら[万物]の本体であれそれに対して付加されたものであれ、私たちがそれら[万物]に至高者の存在以外の別の存在を認めるなら、そのような存在もまたそれら(万物)とおなじように措定され定立されたものものとなり、その措定され定立された存在者を存在者たらしるものとは何なのか(という問い)に議論は戻ってしまう。そしてそれこそが疑念、疑惑の余地なくアッラーの存在であり、誰もが私たちが述べた意味での存在一性論の学説を認めざるをえなくなるのである。
 
 「アッラーを除く諸世界についてあなたがたは何を述べているのか?と問われるなら、形骸の学者や神学者に対しては私たち(存在一性論学派)は以下のように答えよう。
 「これら(被造物)全てはアッラーの存在によって存立している。それは被造物であり、その本体を鑑みるなら純粋無であるので、それ自身においては措定され定立されたものに過ぎない。そしてその存在はただアッラーの存在にのみによっており、たとえそれ[アッラーの存在]によってそれ[アッラー]以外のものが有らしめられているとしても、存在はアッラーただ御独りにのみ属するからである。
 被造物の存在はアッラーの存在によって成り立ち、たとえそれ以外のものによって存在しているとしても「存在」とはアッラーのみに属す。

 同様に「あなたがた[存在一性論学派]の主張によると、責任能力者の行為について[神によって]強制されており、彼らには[自由な]選択は無いということになってしまうが、責任能力者の行為についてあなたたちはどう考えるのか」という者たちに対しても、「私たちはあなたがたと同じことを考えている」と答える。
 「周知のようにあなた方[神学者]は、人間には選択的部分があり、それによって自分の行為への糸口を得る、と言うが、私たちはあなた方に、全般的に同じことを述べる。なぜならアッラーはすべての創造者であって、「創造」とは「措定」、「定立」を意味するからである。

 「存在」、「措定されたもの」、「定立されたもの」についての私たちの議論に戻ろう。
わたしたちがどのように措定し定立しようとも、それは存在を必要とするが、アッラーの存在以外に存在はない。そしてそのようなものはそれ自身としては純粋無でありながらアッラーの存在によって存在者になっている。万物の措定され定立されたこの「存在」は、それら[万物]の本体そのものであるか、あるいはその付加物であるかであるが、それは形骸の学者や神学者がそれを述べている。彼らはそれをアッラーの存在に対する二つめの存在とみなし、それによって真智者のうちの真理を体得した者である存在一性論学派を批判するが、そのような見解は真智者を害することはない。彼らは(アッラーの存在の)超越性を完全に理解した上で、知る者(アッラー)と知られる者、創造する者(アッラー)と創造される者の間にある類似性が完全であるために存在一性論を主張するのである。それを認めることが彼ら(存在一性論者)に不可能でないのは、彼らが知られるものや被造物に対して、知る者や創造主が持つ属性や名称に対応するものを認めるが、それが彼らの存在一性論の一貫性を損なうことはない。なぜなら真理と体得した真智者たちは、すべての存在者を存在者たらしめているものについて語っているからである。それがなければ、存在の中にそもそも存在者(見いだされるもの)も、認識されるものも、知覚されるものもありえず、あらゆる被造物はそれらを統括するその(アッラーの)存在を視野に入れなければ、それ自身の中には存在を全く有していないのである。
 
 なぜなら被造物には自分(被造物)自身を創る力はなく、それは並ぶものなきアッラーただ御独りの真なる存在だけ(の力)だからである。そして至高者(アッラー)には、彼が措定し定立したあらゆる被造物、もしくはその一部に宿るということは決して考えられない。なぜなら措定され定立された物は、それ自体では純粋無に過ぎないからである。どうして存在が虚無に宿ることがあるだろうか?
 
 同様にアッラーが被造物と合一することも考えられない。なぜなら創造主の本質(ハキーカ)と被造物の本質はお互いに全く異なるものであり、両者には類似する点は全くないからである。真なる御方の本質は「無限定性(イトラーク)」によってさえも限定されない(ムトラク)純粋有である。なぜならそれ(無限定性)もまた限定(カイド)だからである。一方、措定され定立されたものの本質は純粋無であり、限定されたものである。措定され定立されたものの存在は、形骸の学者や神学者が述べているように私たちもそれを述べているとすれば、それもまた措定され定立されたものであり、その本質はやはり純粋無なのである。

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